ポドゥアン先生、シエナとは何処までも不可思議な街でございます。
その一本の高い塔には入り口が無いのです。はなから扉を作ろうとした跡形が見当たらないのでございます。
その塔の遥か上、小さな窓から聴こえ来るその調弦の音は、何ぞの場所からの共鳴音に違いないと思うや、私はカンポ広場の周りに立ち並ぶ家々の、その狭い路地裏まで、ただ耳を頼りに探し歩いたのでございます。
案の定、一軒の古い邸の窓からチェロの演奏が漏れ奏でられていたのでございます。
その音は、音楽にまだ一欠けらか二欠けらの純粋性が留まっている時代の、おそらくは1600年代の、今ではとうに忘れられた作曲家の作品に違いなく、しからずんば有り得べからざる事ではありましょうが、私の友人リシャール・ラリランダンの作品の如くに聴こえたのでございます。
覗き見れば、そこに長椅子に座りチェロを演奏しておりましたのは、老女でございました。
(つづく)